ohinanikki

音楽・本について、色々。

何かを教わる時はいつも、話すことそれ自体も教わっている

とある人と、とあるメールのやり取りをした。おそらく60才前後?の方だが、さすが年の功(失礼かな?)と感心。本当に感銘を受けた。こんなふうにくさみのない、澄んだ言葉が流れるように紡げるのなら、そのためだけにも長生きしてみたい。淡々と不要な情緒は排して、論は進むが、何も物足りなさはない。「伝える」ことが主眼で、そのためにまっすぐこちらへ進んでくるのだから、何も物足りなくはない。そんなごくシンプルなことが、私の中で長いことふて寝していた部分をゆり起こして、つっかえなくていいと分かったイメージの水路が、広々と流れ出すような気がした。言葉はきっと、こんなふうに使うものなのだろう。今ここで伝えるためには必要でない「私」がいなくなればいなくなるほど、どうでもよくなればなるほど、言葉自体の存在感は増すのかな、とも思ったりした。

誰かが言葉を「そんなふうに」使うからといって、私も同じく「そんなふうに」使わないといけない、ということにはならない。言葉に限らずだけれど。なので、何か自分なりに精度を上げていく、というのは、疑うということも含まれるだろう。手元にある持ち物の中には、いつの間にか持たされていたものも含まれ、さらにその中には自分には不必要なものも含まれるからだ。