ohinanikki

音楽・本について、色々。

生理的に無理、とか

ふと思ったこと。「生理的に無理」の生理って、多分その人の身体的(に感受できる)感覚、もしくは育った環境に依るもの、なのではと。で、若いうちは(若いうちこそ)エーテル体(ざっくりいうと生命力)が弱いらしいので、身体的感覚・育った環境による感受の割合が多いはず。で、だんだんとエーテル体(魂)や意志が強くなると、「生理的に無理」が少なくなる。慣れもあるでしょうし。魂レベルでは「生理的云々」が、どってことなくなる。もちろん個人差はあるでしょう。一生、身体的感受・育った環境からの価値観から離れない人もいるでしょうし、それが悪いことでもない。

で、「生理的に」がなくなって(それらが過度に主張することがなくなって)残ったものが、魂的に本来のもの。「生理的に」(=「特別な」身体的感覚・育った環境)の部分で創作などしていた人は、なのでそのつっぱりがなくなると、枯渇するのかもしれない。けど、魂の中に源泉があった人は、つっぱりがなくなることで、むしろ流れやすくなる、のでは(念のため、これもまた、ぱっきりその2つに分かれるものでもないかと)。

魂側から見ると、身体的・環境的なるものは、たまたまの偶然のもの。身体は乗り物、環境は車庫。行きたいところに行ければ、とりあえずそれらは何でもいい、という魂もいる、皆が皆じゃなくても。その偶然のものが武器(幸運)であったり、枷(不運)であったり。武器なら使い方さえ分かればそのまま使えるし、枷であれば、何とかしようと思いさえすれば知恵や忍耐がつく。手元にあるものは、それがほしかったものにせよ、ほしくなかったものにせよ、もし今使えそうなら何でも使った方がいい。手元を元手に。

「人間が丸くなる」というけど、そのとれた角の部分が「生理的に」。角がとれて、キャラが薄くなるか、むしろ覆いがとれて濃くなっていくか。もちろん、感覚・環境・魂のどれもがずっとギラついてる人もいるでしょうし、人との巡り合わせでギラつく人もいるでしょうし、人生いろいろ。まあ一つの物差しとして。

個人的には身体的なデフォで叫ぶより、魂で叫びたいなあ、と。あらかじめ用意されていた場所ではなく、より場違いな場所で。