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歌詞の解釈②:したたるさよなら - ましまろ

したたるさよなら

ましまろ
作詞/曲:真島昌利

なまめく 虎の縞模様
夕陽の首が 折れている

19世紀の絵の中の海へ

思い出 冬の体育館
シャッター 逆光のままで

吐く息白い 冷たいやさしさ

したたる さよなら
したたる さよなら

なまめく 虎の縞模様
夕陽の首が 折れている

19世紀の絵の中の海へ

したたる さよなら
したたる さよなら

例によって、「正解」になれなくても、書ける何かを書く。

歌い出しから、サビ「したたる さよなら」の瞬間まで、時間を巻き戻しながら近付いていく。「なまめく~絵の中の海へ」までは、時系列としては「さよなら」のあと、したたり落ちた「さよなら」が染み出し、描き出す風景を眺めている。

1曲目のライオンといい、この虎といい、タロットの『力』を連想した。この猛獣らに「なまめく」や、1曲目の「飛沫」「風」などの形容詞がつくと、雄々しさにどこか色気や瑞々しさも加わる。扱いの難しい大きな『力』の象徴であるライオンや虎自体に、優しさや神性(自然の理)が備わっていて、タロットの中のあのライオンを手なづける女性も、獣の中にすでに存在しているかのよう。

さよならがしたたる、とは別れの予感、だろうか。「したたる」=わずかな水が静かにつたって落ち、じきに染み込むように、この別れの予感を理解する・受け入れる、ということか。「吐く息白い 冷たいやさしさ」がそれを感じ取った瞬間。この「さよなら」と、それまでの思い出と、どうにも座りが悪く(夕陽の首が折れている)、生々しくもどこか絵空事のようでもある(19世紀の絵)。

1曲目とつながっているのだとしたら、「19世紀の絵の中の海へ」は、海へ行った思い出が、まるで前世のように遙か昔に思えるのかもしれない。「夕陽の首が折れている」は、水平線の下に映る夕陽を思わせる。実際の太陽と、海面(=記憶、無意識)に映る太陽とのずれ。別れの予感を感じ取った今の私と、思い出の中の私とのずれ。

夕暮は昼から夜への移り変わりであり、刻々と時が過ぎ行くということ、その過去と現在が入り混じるのを、分かりやすく可視化できる時間でもある。それの「首が 折れている」とは、頭と心が分断してしまっているのだろう。頭では別れを理解していても、気持ちはついていけない。去り行くものを静かに見送りながら、けれど、それは痛いほどぎくしゃくしている。

「なまめく 虎の縞模様」は、パーフェクトな思い出。虎の縞には脂が乗っている感じ。そのあと雄々しい虎は神様みたいに太陽となり、日が傾いて海面に映るその虚像と現れた時、それは首が折れている。そして数世紀も昔の海の中へ、その太陽の輝きと熱は、ただもう沈んでいってしまうのだ。

 

ましまろ [Analog]

ましまろ [Analog]