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19世紀・パリの愚者と隠者たち

タロットの解釈を考えていたら、「0 愚者」ランボーの詩「感覚」みたいだ、と思った。2011年9月という時に出版された、鈴村和成・個人新訳による全集は、この詩から始まっている。「そしてゆこう、遠く、ずっと遠くへ」と。プルトニウムの風に吹かれて。

 

ランボー全集 個人新訳

ランボー全集 個人新訳

 

 



感覚

夏の蒼い夕暮れには、小道を通ってゆこう、
小麦の穂にちくちく刺され、こまかな草をふんで。
夢みる僕は、足元に草のさわやかさを感じよう、
帽子もかぶらず、風が頭をひたすにまかせて。

話もしない、考えもしない。
それでも限りない愛が 僕の心にのぼってくるよ、
そしてゆこう、遠く、ずっと遠くへ、ボヘミヤンのように、
《自然》と連れ立って、―女づれみたいに、幸福に。




ランボーの訳は、この鈴村和成さんのものが一番良かった。訳された日本語の中に、瑞々しさが息づいて流れていて。言葉の連なりがやわらかくしなるようで、詩の持つ光や色を遮らない(ただ余りに軽くなり過ぎている部分もあったので、個人的には、1998年に出たこちらの方がより好きだったけれど)。

 

ランボー詩集 (海外詩文庫)

ランボー詩集 (海外詩文庫)

 

 

ランボーの日本語訳で出てるものを全て読み、伝記も全て読んだ。書かれた残された手掛かりを受け取めた上で、自分の中でぼんやりと、自分なりの「理解」が立ち昇ってくる。個人的な勝手なイメージは、その「もや」から切り取られる線自体が生き物のように離れてはまた解けて、完全に切り離されてしまうことをどこかで拒む。だからだろう、どの評を読んでもどこかどこまでも物足りなさが残る。作家を好きになるということは、その作品を自分なりに読むということは、そういうことなのかもしれない。ふと気付くと、その未だ読み足りない何かについて考え続けている。だから一度、ゆらゆらしつづけるその線を一通り切り取り終えるように、拙くても書いてみようと思った。

*


ついでに、タロットに導かれて語られるイタロ・カルヴィーノ『宿命の交わる城』ふうに考える。
 

宿命の交わる城 (河出文庫)

宿命の交わる城 (河出文庫)

 

 

「0 愚者」ランボーその人自身として、彼はヴェルレーヌに、彼にとって理想の「Ⅸ 隠者」たることを望んでいた。そして実際のヴェルレーヌがその「隠者」の役を演じ切れないことに苛立った。若く潔癖で性急で、それが彼にとっての愛だった愚者は、愛する人の目を覚まそうと、引きずり回すように振り回しつづけた。狂信的なカトリック教徒である母親の気質は、彼の母から遠く離れた場所で、そんなふうに自らを取り囲んだのかもしれない。そして、それまで彼の全てだった、ヴェルレーヌと詩作とに、同時期に決別することになる。「全て」、それは詩の題にもあった《永遠》をどこか連想させる。

「0 愚者」カードの、永遠だけを見ている眼。あと一歩で愚者の脚が崖から落ちそうなところ、犬が裾を咥え吠えている。崖の縁とその先、それは「0」の範囲の内と外。ランボーのいう「見者」にとっては、いくつもの「0」の外へと出なくてはならなかった。その階層の外へとくぐり抜ける度、幾度も瑞々しい感覚や身体を酷使しながら。そうして《永遠》への有無をいわさぬ希求は、文字通り破滅的な終わりへと向かっていった。

例えばランボーの後半生は、彼がそれ以外の何をしても、詩も自分自身も何もかも許せなかったから、と考えてみる。どこか償いであるかのように、あまりに過酷な砂漠での暮らしとその最期。それは実質、彼をあまりに早く死へと追いやった。とうに忘れたと思ったもの、もう見えなくなったものこそが、私の気付かぬうちに私を引きずりまわし続ける、もし本当にそうなのだとしたら。

これ以上の何かを、もっとずっと遠くへ。あまりに若くにそんなふうに駆け抜けてしまうと、その間に見えた景色は全て、取るに足らないものに思えるのかもしれない。そしてひどく潔癖であるが故に、そのひどく遠くまできた、駆け抜けた間にあった苦痛だけを、ただただ確かなものに感じて。なぜ、というなら、だって苦痛だけが、現に今も確かにここに残っているから。


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なんにでも耐えてきた、
むなしかった青春だよ、
繊細さのせいで、
僕は生涯を失ったのだ。

ああ!心という心の
陶酔する時よ、来い!

(“いちばん高い《塔》の唄”)

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彼は「陶酔」ではなく、「苦痛」にこそ《永遠》を見たのではないだろうか。最期にたどり着いた、この星でいちばん太陽に近い彼の地で。いつか忘れてしまったものを、もう永遠に忘れないために。


幼い頃から憧れた、父の書斎の図鑑で見た、遠い異国の地。家を出て行った陸軍の父が住んでいた場所。父が出て行った頃に、詩人は詩を書き始めている。その場所が、彼の長い長い脚を切断することになり、最後に旅した場所となった。長い脚、それはフランスを徒歩で横断するほどの、脱走兵にもなれたほどの、恋人の許からも詩からも出奔し、「ここ」以外の漂流してきた、それまでずっと落ち着きのない脚であった。

遠くのまだ見知らぬ場所、遠い昔に失われたもの。それらが見せる、向こう岸へ手が届きそうにない、網を投げても手応えなく呑み込まれてしまうような、遙かな隔たり。絶えず鬱屈し苛立っていたランボーにとって、その遙かな未知の距離を眺めることこそ、息つける時であったのかもしれない。向こうへと届くか分からない梯子を架けるように、言葉を紡ぎながら。

彼の詩は予言だった、といわれる。つまり詩を捨てたあと、詩に描いていた景色を実際に見に旅立ったのだ、と。自らの言葉で架けていた梯子を、自身の脚で渡った時、その眼下の眺めを「見者」はどう見ていたのだろう。彼は彼自身のペンによる《永遠》を帳消しにしたかったのかもしれない。もしくは永遠につづくかに思えたその「苦痛」が、もしもいつか消え去る時が来るのだとしたら、その瞬間をその目で見届けたくて、彼の地まで来たのではないだろうか。この世でいちばん長く太陽を見送ることのできる、その場所まで。

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また見つかったよ!
何がさ?――《永遠》。

太陽といっしょに
行ってしまった海のことさ。

(“永遠”)

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