ohinanikki

音楽・本について、色々。

何かを教わる時はいつも、話すことそれ自体も教わっている

とある人と、とあるメールのやり取りをした。おそらく60才前後?の方だが、さすが年の功(失礼かな?)と感心。本当に感銘を受けた。こんなふうにくさみのない、澄んだ言葉が流れるように紡げるのなら、そのためだけにも長生きしてみたい。淡々と不要な情緒は排して、論は進むが、何も物足りなさはない。「伝える」ことが主眼で、そのためにまっすぐこちらへ進んでくるのだから、何も物足りなくはない。そんなごくシンプルなことが、私の中で長いことふて寝していた部分をゆり起こして、つっかえなくていいと分かったイメージの水路が、広々と流れ出すような気がした。言葉はきっと、こんなふうに使うものなのだろう。今ここで伝えるためには必要でない「私」がいなくなればいなくなるほど、どうでもよくなればなるほど、言葉自体の存在感は増すのかな、とも思ったりした。

誰かが言葉を「そんなふうに」使うからといって、私も同じく「そんなふうに」使わないといけない、ということにはならない。言葉に限らずだけれど。なので、何か自分なりに精度を上げていく、というのは、疑うということも含まれるだろう。手元にある持ち物の中には、いつの間にか持たされていたものも含まれ、さらにその中には自分には不必要なものも含まれるからだ。

ピアノ探訪⑥

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7月、京都で練習する場所を探していたら、楽器店でピアノ室を貸している場所を発見。1945年創業のアメリカヤ楽器店というところで、しかもディアパソンをメインに扱っていて、練習室にもEシリーズ(大橋デザイン)のディアパソン。ひつこく探したかいがあった・・・

練習室のピアノはよく調整されていて、それだけでいい思い出になるぐらい。近所の人たち羨ましい。弾き応えありながら、繊細な反応で、色づけを排した音色はその分まっさらな余白があって、発音1つ1つに想像をかき立てられる。帰りぎわに販売用のピアノも勧められて弾かせてもらったけど(一応遠慮したのですが)、それも良かった。

HP内には、現在のディアパソン技術者である乗松直さんという方のインタビューもあって(他にもyoutubeであり)、十代の時にコンサートで聴いたディアパソンの音が忘れられなくて職人さんになった、っていい話。それぐらい、こわいぐらいに耳がいいのだろう。

上のスキャンは、もらったカタログの中にはさまっていた雑誌のコピー。それによるとディアパソン創設者の大橋幡岩さんは、真言寺の僧だった父を8才で亡くしている。いきなり、マドンナか大橋さんかっていうぐらいのカリスマ性を持つ生い立ちである。

夢について、気付いたこと

夢について、気付いたこと。夢には何となく「虫の知らせ」とか、「予知夢」のイメージを持っていた。けど、むしろできごとの余韻・反芻(できごとが終わっても、それについての気持ちがまだつづいている)とか、よそで現在進行形で流れていること、だと思った方がしっくりくることに気付いた。この世で同時進行で流れている状況があって、それをただ、自分の目ではまだ見る機会が来ていないだけ、という。

なので、今持っている思いや念が消えて、それからだいぶ経ったあとの世界、というのを夢で見ることはない気がする。そんなに離れた先のことは、知る必要もないし、あまり知りたくもないし。「できごと」が個人の生活の範疇を超えるならまた別ですが。その「思い」が世の中に対する漠たる不安、だとしたら、それは多分終わることはないだろうし。

なので、近未来のヒントを夢で見ても、それ=カンが良い、というのとは違う気がしてきた。自分がよくおどろどろしい夢を見るのは、むしろ頑なに見ていない現実を、無意識が知らせざる得ない、ということなんじゃないかと思ったりした。

出先でかかってきた電話、雑踏の中、途切れ途切れに聞こえた声に、話自体聞き取れてないのに、表情を伺うように耳を凝らしながら、そんなことを考えたりした。

ピアノ探訪⑤

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ピアノを買えることになりました。ので、何が何でも引っ越さなくてはいけなくなりました。

下写真の大橋ピアノがそれです。上はその設計者である大橋幡岩さんが、かつて在籍していた小野ピアノのもの。

大橋ピアノは音色には相当なこだわりを持って作られていたようなのですが、写真のように苔色(海苔色?)をしたものが多く、何でもヤマハから塗装がうまくいかなかったものを安くで買い付けていたかららしい(笑)。製造番号も蓋あけた横のへりに、テプラで張ってあったりします。かえってお洒落。なのに、というか、だからこそなのか、響きに深みがあり、吸い込まれそうな音色です。

ピアノ探訪、またひたひた書いていきます。

ピアノ探訪④

旧グッゲンハイム邸にて、展示品であったプレイエル

2013年1月に神戸市塩屋「旧グッゲンハイム邸」にて、演奏させていただく機会があった。実はそのころも色々あって、かなり暗い気持ちで関西まで向かっていた。塩屋の駅から、小高い丘の上に立つ洋館が見えた。あれかと思い、工事中がつづく道路をいく度も回り道しながら、通路を探した。ようやく建物の入口が見えて、石段を一段一段昇るたびに、なぜか気分がみるみる晴れていくのが分かった。あれは本当に不思議だった。あの場所には、何かいい「気」とか磁場のようなものがあるのだろうか。庭へたどり着くころには、今日はいい日になるだろうと思っていた。

パリで戦前のピアノを修復している、日本人女性のHPがある。数年前に見つけてから、ちょくちょく見ていた。旅先のフランスで、その小さな工房の理念・姿勢に惹かれ、志願したらしい。その時代のピアノは木目や寄木細工、木彫り、燭台などの凝った装飾があしらわれ、とても綺麗。 Pianos Balleron

音はどんな響きがするのだろう、一度弾いてみたい・・・と思いつつ、日々の交通費にも事欠く身分、おパリなんてどだい無理、夢のまた夢だった。

ところがグ邸に出演が決まった時、何と同じ修復師の手がけたプレイエルが、ちょうどそこに展示されている時だったのだ。しかも常設のピアノを修理に出しているとかで、催しの演奏で使用していいとのこと。出演が決まったあと、ネットでその偶然を見つけて、一人悲鳴を上げるほど驚いたのを覚えている。

グ邸に展示されていたのは、PLEYEL 3bis 1905年製のもの。製造年はちがうが、このピアノ。



PLEYELはフランスのピアノ・メーカー。ショパンの愛用が、よくいわれている。以前ある雑誌の付録に、19世紀製プレイエルで演奏されたCDが付いていた。この時代のピアノは、まだピアノの先祖・フォルテピアノに近かったようだ。プレイエルは特に、他フランス・メーカーの中でも甘く可愛らしい音がする。

ショパンの時代は、サロンで演奏することが多かった。小さな室内でグランドピアノの周りを取り囲むようにして、みんなが聴く。ピアノの倍音は色々な方向へ飛んで行き、それぞれのもとへ届けられる。今のグランドピアノはコンサートホール用に設計されていて、いかに大きな音が出せるかが主眼となった。音は大きく、そして一方向、ステージから離れた客席だけを目指している。

私感だが、戦前のピアノは半分夢の中か、雲の上にいるような音がして、今の私の耳にはひどくやさしく聴こえてしまう。SP盤時代の歌手の声も、夢うつつに半分眠っているかのような雰囲気がある。曲や音楽というものは、とても大きなもの、ということを信じていて、そこに自身を委ねて身を任せているようで、不自然に過度に個性を出すようなことをしない。そんなふうに戦前のピアノも、演奏者や音楽に委ねているのかもしれない。

戦後のピアノは、そこに深い影を落としたかのように、悲痛さ・悲壮さが加わったように思う。私が個人的に感じる、その「悲痛さ・悲壮さ」ととる部分を嫌だとは思っていない。むしろ、惹かれる部分でもあり、私にとってピアノの音はそれとすでにセットになっている。戦後からさらにずっと後に生まれて、そもそもピアノはそういう音として知っているのだから。探している国産メーカーは、どれも戦後に作られたもの。そこに勝手な想像による、その時代のこの国の物語性を見てしまってもいるのかもしれない。だからこそ、実際に音そのものを聴いてみたくも思う。

グ邸のプレイエルは、心が洗われるようだった。小鳥のさえずりのような、澄んだ泉がこんこんと湧き出るような音。自分の曲やダークな曲は、ちょっと弾きたくなくなってしまうような音だ。でももちろん、そういう曲を練習したい。

部屋で自分のために弾くなら、音量はあまりいらない。ただ、いい音であってほしいと思う。どういう音を「いい」と自分が思うか、最終的にどういう部分を優先するかは、聴いてみないと分からない。まあ、2、3台まとめてぽんと買えたら、いいのでしょうけど・・・

ちなみにグ邸ではプレイエルの展示は終了し、もとの常設ピアノに戻っている。HPによると「DIAPASON HAMAMATSU 19044 No.170 (Ohashi Design No.24)」とあり、ピアノ探訪②でも書いた、大橋幡岩さん設計によるもの。これもまた今年の夏に弾ける機会があるので、今からとても楽しみにしている。