ohinanikki

音楽・本について、色々。

いつか問いを追い越すために

日曜に霊園散歩。冬の澄んだ余白の端に、落ちていく日の色がにじんでいた。死んでしまった人について、先週長い長いメールのやり取りをした。そのことをかすかな風の中で、途切れ途切れに思い出したり、つづきを考えたりしていた。

「死について考えることは、生について考えることと、つながる」。
あの人はなぜ死んでしまったのか、どういう気持ちで死を選びとったのかを考えることは、そのまま自分がこれからどう生きるか、ということと、確かに殆ど同じ意味だ、と気付く。

若いころは特に、自殺や夭折した作家の言葉に魅かれていた。自身で本当に死んでしまうほど、又は死期を常に覚悟しているほどに、生に対して真剣なので、読んでいて単純に凄味があった。むしろそれらを読むことで、生きている実感をもらっていた。

個人的には、自殺が悪いことだとは思っていない。自殺することは「逃げ」というよりも、「偶然」といった方がまだ真意に近いように感じている。どんな境遇に生まれるか、どんな感受性を持つのか、それは全くの偶然、世界は何一つ平等ではない、という意味で。

遺書は、いつもほとんど完璧な問いかけのよう。それに対する答えなど、どこにもないかのような気がする。窺い知れない痛み、想像も出来ない恐怖。それについて知る由もない、どこまで行っても他人としての私。「なぜ死なずにいるのか」と問われたら、それについてあまり深く考えていなかった、というのが私には正直な答え。でも「なぜ生きるのか」なら、いくらかは何かを答えられそうな気がする。

いつだって、どんな問いかけよりも、その答えの方がずっと難しい。敢えていえば「問い」は、だだっ広い空き地で、ボールを好きに投げるようなもの。明後日の方向でもいいし、豪速球とか変化球だとか、美しいフォームとして見せることもできる。「答え」は、そのボールがどこへ行ったのか、どこまでも探しに行き、見つけてその投げた人の手元へ、返しに行くようなもの。問いかけた、その人のために。例えそこにもう、そのあなたがいなくても。だからどんなに鋭く美しい問いよりも、何か少しでもかすっているのなら、その答えの方が私は好きだ。そして完璧な答えは、例え問いが、答えられるその瞬間まで、どんなに切実で美しかったとしても、それをあっさりと超えてしまう。答えよりも切実な問いは存在しない。それは「あなたに・答える」と、決めた時点でそう。

例えば、問いは不和を見つけ、分断すること。答えはそれらの水脈を指し示し、つなげること。問いは切り裂き、答えはつなげる。それは傷を癒すということ。致命傷でさえなければ、もしまだ、間に合うのならば。

死は行ったきり、帰って来ない。だからそれは問いだ。生は答えだ。何度でも言い直すことが出来る、その場所。生きて、まだ答え足りないとする、その態度のことだ。

西日の反射する墓石たちを見ながら、ふと、自分は思い至らないから、こんなふうに生きていけるのかもしれない、と思ったりもした。

病み上がる朝に

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31日の晩、夢を見た。長い扁桃腺炎がようやく治ってきた頃だった。私にとってはこれが初夢だろうと思った。なので1・2日の夢は覚えていない。

一度起きたので、2つ。

1つ。
朝の色が重く澄んだ、うら寂しい碧だった(これで見ると「青藤色」に近い)。

目覚めてベランダに出る勝手口を開けると、眼下に大きな飛行機たちが交差して、滑走していた。その1つがゆっくりと離陸した。私は空港に住んでいるようだった。いくつかの飛行機を見送った。行き違う、こちら側の眠気が醒めるまで。

2つめ。
鴇色を映す湖いちめん。夜が明ける時刻に漂う。その空はなぜか見えない。湖はどこまでも広がる。乗っているボートの一漕ぎのたび、さらに広がり続けている。湖底から穏やかに脈打つ。どこかずっと遠くにある水の端が、行き渡るように伸びつづけている。そんなことを、自分の身体の中の水のように感じる。

漕ぐ人は、私の気がかりをまだ知らない。けれど何を知っても変わらない横顔をしていた。私が思ったこともないことで、出来ている、ここから。ここからが、見えてくる。いま言えると知っている範囲の外に、言づけの宝石みたいな房がある。幾度も見たことがある。死ぬ、というのは、例えばそれをはたと、見かけなくなることかもしれない。湖がどこかでまた、宝石を飲み込むのを感じる。

Love I Obey - Jack Hall


(対訳)  


私の名前はジャック・ホール、煙突掃除夫、煙突掃除夫の
私の名前はジャック・ホール、煙突掃除夫の
私の名前はジャック・ホール、富豪からも貧者からも盗み続けてきた
そして その全てに 私の首が支払うでしょう 私が死ぬ時、死ぬ時に
そして その全てに 私の首が支払うのでしょう 私が死ぬ時にでも

ある店に20ポンド持って入った、冗談ではなく、それは冗談ではなく
ある店に20ポンド持って入った、それは冗談ではなく
ある店に20ポンド持って入ったら、私はもう20ポンド盗むでしょう
そして その全てに 私の首が支払うでしょう 私が死ぬ時、死ぬ時に
そして その全てに 私の首が支払うのでしょう 私が死ぬ時にでも

彼らは私に云った 刑務所の中で私が死ぬ、死ぬのだと
彼らは私に云った  刑務所の中で 私は死なねばならないと
おお 彼らは刑務所の中で伝えた、もうブラウン・エールを飲めないだろうと
今までの過ちを 打ち捨てられたら 私が死ぬまで、死ぬまでの
今までの過ちを 打ち捨てられたら 私が死ぬまでに

私は乗り込み タイバーンの丘へ 身動きもできず、身動きもできずに
私は乗り込み タイバーンの丘へ 身動きもできぬままに
おお 私は乗せられ タイバーンの丘へ これは私の意志が引き寄せたもの
ただ一言、引き離される親友に さようなら、最期のさようならを
ただ一言、引き離される親友に これでさようならと

はしごの上で 私は手探りをした 冗談ではなく、それは冗談ではなく
はしごの上で 私は手探りをした それは冗談ではなく
はしごの上 私は手探りをして それから 吊られた男の ロープが伸びた
何一つ 語らぬままに 私は ぶら下がった
おお 何一つ言葉もなく  私は 裁かれた 

 

Love, I Obey

Love, I Obey

 

 

 

生理的に無理、とか

ふと思ったこと。「生理的に無理」の生理って、多分その人の身体的(に感受できる)感覚、もしくは育った環境に依るもの、なのではと。で、若いうちは(若いうちこそ)エーテル体(ざっくりいうと生命力)が弱いらしいので、身体的感覚・育った環境による感受の割合が多いはず。で、だんだんとエーテル体(魂)や意志が強くなると、「生理的に無理」が少なくなる。慣れもあるでしょうし。魂レベルでは「生理的云々」が、どってことなくなる。もちろん個人差はあるでしょう。一生、身体的感受・育った環境からの価値観から離れない人もいるでしょうし、それが悪いことでもない。

で、「生理的に」がなくなって(それらが過度に主張することがなくなって)残ったものが、魂的に本来のもの。「生理的に」(=「特別な」身体的感覚・育った環境)の部分で創作などしていた人は、なのでそのつっぱりがなくなると、枯渇するのかもしれない。けど、魂の中に源泉があった人は、つっぱりがなくなることで、むしろ流れやすくなる、のでは(念のため、これもまた、ぱっきりその2つに分かれるものでもないかと)。

魂側から見ると、身体的・環境的なるものは、たまたまの偶然のもの。身体は乗り物、環境は車庫。行きたいところに行ければ、とりあえずそれらは何でもいい、という魂もいる、皆が皆じゃなくても。その偶然のものが武器(幸運)であったり、枷(不運)であったり。武器なら使い方さえ分かればそのまま使えるし、枷であれば、何とかしようと思いさえすれば知恵や忍耐がつく。手元にあるものは、それがほしかったものにせよ、ほしくなかったものにせよ、もし今使えそうなら何でも使った方がいい。手元を元手に。

「人間が丸くなる」というけど、そのとれた角の部分が「生理的に」。角がとれて、キャラが薄くなるか、むしろ覆いがとれて濃くなっていくか。もちろん、感覚・環境・魂のどれもがずっとギラついてる人もいるでしょうし、人との巡り合わせでギラつく人もいるでしょうし、人生いろいろ。まあ一つの物差しとして。

個人的には身体的なデフォで叫ぶより、魂で叫びたいなあ、と。あらかじめ用意されていた場所ではなく、より場違いな場所で。

反映の境で、振り返る

ハロウィンみたいだし(会社、いたるところにお菓子がたくさん)、怪文書でも。

1
内も外も、くらげ。海月が、界面活性剤漬けの、肌を刺すような溶かすような水の中へ、身を投じる。その時はそれが良かれと思っていた。夜になるとその海の底へ潜り、ふるいにかけたあとのものを、微細なひだまで矯めつ眇めつ、眠りに落ちた。

2
「共感しなくていい」ということを教わる。同調ではない、議論・対話。そのことで見えてくる・掴めてくる私の輪郭。それはただ闇雲に悪くも、良くもない私。中立・客観的という白日の下。けど「白日」といえど天気は変わるし、もとより局地的。その白日の下で、過去現在未来・上下前後左右からバラバラに切り離された個々、情報・・・

それより、ここが薄暗いからこそ立ち現れた「斜めに射し込む光」に、心もとなくも魅かれた。

3
ごく最近聞いて、とても印象に残ったこと。「自分自身の内面・無意識との向き・付き合い方が、そのまま人間関係に反映される」。内(無意識)で放った(屠った)ものが、旋回して外から、こちら目がけてやって来る(狂犬とかゾンビとか)。内で手を放した分だけ、何度も。内なる未開の地に丁寧に向き合えば、外でもそれと同じように解(ほど)くことが出来る。ほしいものはもとよりこの中に、つまりそれは自分にしか見えていないもの。なので、掴めるのは内と外、どちらの世界にも一人ずつだけ。

余談めくけど、感情の発露は、いつもそれを「(その時点で)知らない」ということを伝える、のだとしたら。感情の強度だけで、その時点を押し切るのは「知る気がない」ということ。だから「そこ」(・底)に取り残される。

内と外で反転する世界。外が内の「反映」であるなら、この世界はバラバラの吹き溜まり、などではない。間断なくつながって、内と外は平行し変化する。

反転の境界(=私の輪郭)をこの前にゆっくり確認したことは、とても良かった。その境界がない状態(=海月)で過ごしたことも。かように遠回りだったから、はじまりに何もなかったから、見えることもあるのだと思う。

今までいろんな人や出来事から教わったことを振り返ってみると、理解できた順序に現れて(残って)、辻褄が合うようにつながっていくことに気付く。そう思うと私なぞが、いろんなものをもらった気がする。